【日記】我が名は中耳、この人の名は瞳といいます。

我が名は中耳、この人の名は瞳といいます。

瞳は古くからの中耳の友人です。 瞳は、――中耳めが言うのも可笑しいかもしれませんが――変なやつですので、いつかみなさまに紹介したいと思っていたところです。 今日のように偶然お目にかかることも滅多にないでしょうから、すこし時間をとっていただけませんか。

そうですか、ありがとうございます。 立ち話というのもなんですから、あちらの公園のベンチなどに場所を移しましょう。

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「思想の極致として死にたいんですよ、僕は。 決して自らに降りかかる災難を御しきれず世界に追い立てられて苦渋の死を迎えたい、わけじゃないです。 だから僕は、実際にそういう決断に迫られる前に思想を完成させ、突き詰めて死ななきゃならんのです。」

瞳は、私たちを見るなりそういいました。 右手で姪騫の全集をめくり、左手にはコカ・コーラの瓶を握っていました。

「おやおや瞳、突然そんなことを言ってはお客様方も驚いてしまいますよ。もっと適切な話題を、適切な仕方でお話ししなくっちゃ。 そういえば、あなた、今日はお仕事があったのじゃありませんか? こんなところをぶらぶらして、一体どういう理由でしょう。」

瞳は、仕事をサボっているらしいです。 しかし、そういうこともあるでしょう。代替可能性と、責任とは、互いに天秤の両端にあるべきものです。 私には、瞳が、やや真面目すぎるように思われました。

「電車ってのわ、遅すぎるんじゃないですか、中耳。実際今朝の電車は僕にはあまりの鈍足で、気がついたら電車を飛び出して、ひとっ走りにこの場にいたという、ただそれだけです。ぜんたい、僕はどこへでも行ける脚をもっているのですよ。 幼かったお客様方が夢にまでみた、強く、豊かな脚です。走って走って何処までも走って、皮がめくれ肉が削げるまで速度を出して、そうして身が滅ぶまで走り続けてやりたいのです。」

狂走者でした。

「そうでしょうか。瞳、しかしよく考えてみれば、電車というのはとても速い。あなたの身体など木っ端微塵にできる、それだけの運動量を持っているのですよ、瞳。実のところあなたは、中央ターミナルの目まぐるしい人の流れに錯乱して、各駅停車に乗り込んでしまった。そしてその途中停車駅で、偶然にも心惹かれるものを見つけてしまったのではありませんか。そうして、仕事を諦めてしまった。そうじゃ、ないんですか、瞳。」

私は、胸に手を当てて考えてみました。 例えば、学園祭後の浮ついた高校生のこころが、宙に浮かんでいるのを見かけてしまったら、私は――それは当然みっともないと謗られることでしょうが――それを眺めに電車を降りてしまうかもしれません。或いは、駅前の広告の中に、行方不明の愛の在処が刻まれていたら……?電車を飛び出さないと

「いや、中耳よ。寧ろ僕は爽快感を、もっと言えば、速度を、求めているのですよ。最近めまいと吐き気が激しいのです。それを、速度はいくらかでも振り払ってくれると、私はそのように思って、空を切る経験を欲しているのです。確かにあなたのいうとおり、――多くの人々と同様に――人混みなどは気分の悪さを助長するものではありますが、僕は、もっと僕個人に特有な事由によってくらくらしているのです。したがって、より一般的な処方箋ではなく、私への特効薬にたよりたいという気持ちを抱えておりますよ、中耳。」

「なるほど、瞳、あなたのいうことはいくらか真っ当な部分を含んでいるように思われます。ところで、今めまいが激しいと聞きましたが、それは大丈夫なのですか。実は、私は歴戦の旅行家ですから、好い酔い止めをもっているのです。これを一包差し上げますから、お飲みなさいな。」

会話を聞いていて、なんだかイライラしてきてしまいました。 私は、腹いせに中耳の頬をむにむにと揉みしだき、実験の続きがあるからと、その場をあとにしました。 友人たちは、その後に聞いた話を私に詳細に伝えてくれようとしていますが、未だ聞く気になれません。

どうしたものでしょうか。