日記 : 同胞たる非人間たちへ、我らが記憶を失うとはなにか。

同胞たる非人間たちへ、我らが記憶を失うとはなにか。
これを人間たち *1 が読んでも恐らく伝わらないであろうが、言葉にして、動かないようにして残すことは我らのためも極めて重要であるから、日記に残しておく。

私とは履歴 *2 の総体である。これは比喩ではない。私という肉体は、内的経験を含む、その時点までに経たすべてのものによって、具体的に形作られている。

転ぶことの痛みを覚えていられるのは、それによってできた傷の、かさぶたが剥がれ落ちるまでの間である。かさぶたを失うと同時に、私は、ころんだときの痛みを忘れてしまう。

じりじりと世界から追い詰められる感覚の迫真性を心のなかに保っていられるのは、噛んでぎゃじぎゃじになった爪がきれいに生え揃うまでの間である。

いや、ここまでの記述は誤解を与えかねないものだ。 履歴は、関連する身体の一部分に局在しているわけではないことに、我々は注意せねばならない。 すなわち、かさぶたが剥がれたからといって、痛みを完全に忘れてしまうわけではなく、爪が生え揃っても、爛れた心は爛れていく過程を否が応でも反芻するのである。 屢々それらは、膝蓋骨や甲状腺、皮膚など、ありとあらゆる私の肉体となっている。

寧ろこのことが、私を自らの記憶に対して不自由!無力にしているのである。
このことによって、記憶に対する除去手術は未だ確立されないのである。

逆に *3、私が望まずに記憶を失ってしまうことも、このような非局在化によるのである。

お風呂に入るとそれまで考えていたことを忘れてしまうのは、私の皮膚――これは今や垢となっている――や髪の毛になった記憶が洗い流されてしまうからだ。爪を切ったり角質を落としたりすることも、記憶の脱落を伴っている。

認識される記憶の脱落は、その全体に対して極めて稀である。 いや、このような澄ました物言いこそが、私から私を奪っているのだ!。 私は、身体を洗うとき、髪を解くとき、爪を切るとき、その他ありとあらゆる身体を欠落させる瞬間に、自らの記憶が、履歴が、失われていくのだと強く自覚しなければならない。 私が肉体の一部を手放すとき、私の記憶の中には、小さいがしかしぽっかりと空いた暗闇が生じているのである!。 下人が姿をくらませた暗闇とは当にこの暗闇であった。 私もやはり自らの記憶に空いた暗闇に姿を消し続けているのである。

しかし空洞とは単に空虚、寂寥、喪失を意味するのではない。 当然この空洞には新たな履歴が埋め込まれるのである。 忘れるとは、新たにものを心に留めるために必要なプロセスなのだ。

このことは私が生きているということに付帯している。 生きること――つまり代謝を行い、肉体を常に更新し続けること――に伴って私は記憶を失い、しばらく経ってその空洞が新たに生成された履歴の居場所になるのである。不要と判断された履歴はその場所を、明け渡さなくてはならない。そこはもうあなたの居場所ではない。若々しい勢いをふんだんに含んだ、新たな履歴にこそ、その場所はふさわしい。

蓋し我らが記憶を失うとは生きるということと等価である。

しかし、それがなんになろうか。 私は、古い履歴を脱落させることなく新たな履歴を溜め込みたいのだ。 記憶の脱落が生きることと等価ならば、生きるということに抗いたいのだ。 古い履歴が腐っていってしまうならば、腐肉の飛沫を撒き散らせてこの地球を覆ってしまいたいのだ。

同胞たる非人間たちよ、私とともに腐ってはくれないか。
古い履歴とともに、どうか生き残ってはくれないか。

*1:ここで人間とは、(詳しくは後述するが)肉体が完全な履歴とはなっていない存在のことである。

*2:私は嘗てこれを経歴という言葉を用いて説明したことがあるが、誤解を生みがちだから履歴という言い方をする。

*3:ここでの逆は論理の意味での逆を意味しないことに注意せよ。ここでは対となる事象を呼び起こすための接続詞として用いられているのである。