忘れ去られてしまったものが集う庭があるらしいです *1。
その庭はたぶん被忘郷と呼ばれていて、脳みその、へりのところにあります。
生きているうちに忘れ去られたものがそのへりのところに引っかかって閉じ込められて、
出して忘れないでって、脳が本質的に機能を停止する瞬間までずっと、叫んでいるっぽいです。
私が忘れた気になっているだけで、忘れたものは全部被忘郷の中にいるみたいです。
私の心に生じる感情の一部は、被忘郷にいる忘れられたものが抱く感情です。
ずっと昔好きだった音楽(、好きだったことすら忘れていた音楽)を聞いて、嬉しくなることがあります。
好きに再会した喜びだけでは説明がつきません(←事実)。
忘れ去られた嘗ての私――好きな音楽を抱きしめている私――の、叫びがついに届いた喜び!。どうしよう!。
冷たく乾燥した風で皮膚の水分が失われていくのを感じながら(そろそろリップクリームを用意しないと、、、痛い)歩いていたら、
去年、将来死ぬなら冬がいいな♪、と思ったことを思い出しました。
その前の年も、更にその前の年も、同じく思ったことを思い出しました。
夏の間はこれを毎年忘れることも思い出しました。
暖かい / 暑いぶわぶわの空気の中からは決して出てくることのない感覚です。
八号さんの鎮魂短編集
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を見て(たぶん11月くらいのこと!)外に出たくなって、
23時くらいに近所の公園や神社のあたりを散歩したことがあります。
ゆっくりと落ち着いていく神経という図像が今この瞬間と確かに結びついていることが喜ばしく思われるのは
きっと忘れられたもののせいです。
忘れられたものは、時々怨嗟を帯びていることもあるらしいです。
過去のある出来事を、漠然と良かったと思うことがあります(( ;꒳; ))。
しかし、よくよく思い返すと、単に良かっただけではないような、
複雑な経験だったということがあります。
このとき、思い出されたものは、今の私を呪っています。
それだけではなく、忘れている事自体を怒って悲しんでるのもいます。
曰く「置いていくな」とのことです。
過去の私を置き去りにして今の私だけ幸福になるなんてずるいψ(♥`∇´)ψじゃないか、と言いたそうです。
ここから出してくれ忘れないでくれという言葉の起源の一部は、このあたりにあります(きっと!)。
(全然そんなつもりはなかったとしても。)
でも、忘れてしまったものが、全部被忘郷に引っかかっているのはそんなに悪いことではないです。
跡だけ残して本体が消えてしまったわけではなく、蓋をしてあるだけだから、条件が合えば、また思い出せます。
不完全な形かもしれませんが、全部なくなっちゃうよりは余程マシです。
教科書全部カバンの中に詰めておけば、忘れ物を怖がる必要はないでしょう?。
*1:これは昨日夢の中で見た場所です。夢に関する記述は、多くの場合、起きている = 書いている私の思考によって歪められていることに注意してください。覚醒時の私でも理解できるよう、実際には夢の中で表現され得ない"事実"が生成され、無理やり繋ぎ合わされている可能性があります。これは夢の世界の構築物ではなく、所詮、こちら側から見たあちらにすぎません。いつでも、どんなものでもそうです。